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12月の『8月の終わり、9月の初め』

他者はいつも外からやってくる。電話のベルがその存在を知らせたり、ときには旅先のホテルにいないはずの恋人がこっそり待っていたりする。そもそも物語はアパートの売却を考えているマチュー・アマルリックが、買い手候補の客に自室を案内するシーンから始まるのだ。

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アマルリックの友人で作家のフランソワ・クリュゼは、売店の売り子にビールが冷えていないとケチをつけたり、サンドイッチのおすすめを尋ねたりする。
アマルリックの以前の恋人のジャンヌ・バリバールは、中華料理屋で隣の席の客から卓上の調味料を拝借したり(『イルマ・ヴェップ』のナタリー・リシャールも同じだった)、カフェで、注文したノンカフェインのカフェクレムがテーブルに供された途端、気が変わってペリエに取り替えてほしいと言う(『冬時間のパリ』でジュリエット・ビノシュに引き継がれる)。
些細なやりとりだが、フレームの外の他者の存在を明るみにし、こちらに知らせてくれる。

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電車内。売店へ行っていたのかクリュゼとアマルリックの恋人のヴィルジニー・ルドワイヤンが席に戻ってくると、代わりにアマルリックがコーヒーを買いに外す。
原稿を受け取った編集者の友人ジェレミーがクリュゼの部屋を後にして、用事が終わるのを待っていたミア・ハンセン=ラブが入ってくる。
ひとりが出ていって、ひとりが入ってくる。ひとりとひとりが出会う。それはふたりになることを意味するのではなく、ただひとりとひとりがそこにいるということ。それぞれがそれぞれの人生を生きようとしている。ゆえに登場人物たちはみんなどこか孤独にみえる。

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友人の作家の葬式の帰り道、それぞれが帰路につくシーン。車で帰るもの、駅へ向かうもの、散り散りになっていく。雨が降っている。通り一帯の道が濡れているから、おそらく実際に降ったのだろう。たまたま降ってきたのかもしれないし、その機会を狙ったのかもしれない。たしかに親しい友人の死の悲しみを印象付ける効果としてはありがちな手法であるが、そんなことはどちらでもいい。とにかくそのとき雨が降っていた。そのことがひとつの正しい事実としてフィルムに刻まれている。

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この作品をはじめて見たのは何度か前の12月のことだった。終映後、劇場をあとにして坂道を上っていった。いつもは下っていくのだけれど、その日はなんだか上っていきたい気分だった。そのとき感じた午後の澄んだ空気や、背中に受けた冬の低い光のあたたかさは、彼らが降られた雨と、どこかでつながっているのではないか、と考えたことを思い出す。

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グレーのジャケットの肩には雨粒があたって、黒っぽく染みになっている。一人残されたアマルリックはそばのカフェに入る。スタンドの新聞を手にしたところでフェードアウトする。
アマルリックは、ソフトの特典映像として収められたオリヴィエ・アサイヤス監督との対談の中で、作品の感想を問われ「シーンの終わりには扉が開け放たれていて 次のシーンに反響を残していく その反響によって展開する」ことに惹かれると答えている。たしかに作品を通して意図的に半端なところで編集が切られているところは多い。句点は先延ばしにされ、いつまでも読点で区切られていくように。ゆえに印象は固定されることなく次の場面へと横滑りする。
実は初見から再見するまでのあいだ、この雨のシーンにはもっと劇的な印象があったのだけれど、あらためて見るとなんてことのない、省略されたとて全体の構成に不都合のないようなところだった。自分の記憶力の弱さをかばう言い訳にはならないけれど、おそらく、いくらかそうなってしまう理由は作品の側にもあったのだ……。

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アマルリックは、書きあげた原稿を依頼主に渡すために待ち合わせたカフェで、死んだ友人と特別な関係にあったらしい少女を見かける。彼女は待ち合わせていた同じ年頃のボーイフレンドと連れ立ってカフェを出て、路上で抱き合い、キスをする。写真でしか見たことのなかった彼女は紛れもなく存在しており、依頼主との会話もそぞろにその姿を目で追ってしまう。

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彼女は撮影時、ほんとうにたまたまそこにいて、映り込んだだけなのではないか——。もちろんそんなことはなく、俳優の仕事として脚本のとおりにそこにいるわけだが、なんだかそんなありもしない都合まで仕立てたくなるようなシーンだ。巧妙な演出を指摘しているのではない。あのとき雨が降っていたということと同様に、彼女はそこにいた。そう言いたいのだ。