山の辺の道で

詩人でフランス文学者の宇佐見英治の名前を知ったのは、志村ふくみとの対談・往復書簡をまとめた『一茎有情』だった。近所の古書店で函全面に配された格子柄の布地の装幀に惹かれて、数百円で手に入れた。持ち帰ってよく見てみると、実物の布が貼られているのではなく、紙にオフセット印刷で転写されているだけだった。限定の豪華本でもないのだ、さすがに志村の布を付すことは叶わなかっただろうけれど、そこに少しの後ろめたさも感じさせず、むしろヤケやシミなどの古色を帯びて、それが紙であったことの必然性すら感じさせた。
書簡という体裁を取っているから、芸術や詩、自然についての抽象度の高いやり取りが交わされるとともに、互いの近況報告の一面もあって、そこから当時の宇佐見が病に伏した妻の介護に追われ、執筆の時間を取ることもままならなかった様子が窺い知れる。
それでもどんな些細な家事でも手脚を動かし働くことには、なおよろこびがあって(たとえまったく書けなくても)それはそれでいのちをことほぐことであり、自分が正しいと思うことに無心で、そのときどき身を賭するほかない、そんなことを魚菜の買い出しの道中、ふと思ったりすることがあります。
無心でいられるほど強くもなく、身を賭す厳しさも持ち合わせていない自分はどのようして日をつないでいくべきだろうか。端々に見せる生活者としての態度に信頼をおぼえ、どこかすがるように宇佐見の言葉を追い、こちらも魚菜の買い出しの道中で考えを巡らせるようになった。
宇佐見は『三つの言葉』所収の「古都逍遥」の中で、自らの奈良への旅の記憶を巡る。戦前の学生時以来、一度や二度ならず旅をしたことがあるようだ。記憶は入れ子状になりテクストは紡がれてゆく。あるときは新薬師寺をあとにして白毫寺に向かう途中「足元の地面や田の中、山裾の茂みの中から遠い死者たちが目をさまして、その声が夏の青空に溶けてゆく」ように思う。また、「いまでも奈良に来ると私はいくらか自分が本当の故郷に帰ってきたような気がすることがある」が、「郷愁というものは、本当はどこにもないふるさとに対する憧れである」と愛着をみせながらも振り払うように言い退けるとき、野砲兵として戦地に駆り出された人の厳しさがそこに見える。
奈良に住んでいたのは11歳までだった。離れてからはときどき訪れることはあっても、一方的に都合のよい懐かしさを味わったり、気持ちをもてあまして、もう一度この場所との関係を取り戻すきっかけを見つけられずにいた。
新薬師寺と白毫寺は祖父母が住んでいた家から近い。半ばあわい期待を抱き、宇佐見が歩いた場所をなぞってみようと思った。
奈良に着いた日は雨だった。雨足は強弱を繰り返しながらも、常に霧雨がまとわりつく。まだ5月とはいえ、少し歩けばシャツ一枚でも汗ばむようなしつこさを持った空気は、ここに居場所などないのだと言われているようで、どこか不安な気持ちにさせた。夜、宿へ向かうバスに乗る。暗闇を走る車内の蛍光灯の薄緑色した灯りや、くぐもったアナウンスの声に、心は天気と反するようにしなびて、からからに乾いてくようだった。
翌日、白毫寺の方へ向かってみる。このあたりは中心部から歩くには少し距離もあり、散策する旅行者の影もまばらで、住家はそれなりにあるのに、地元の住人らしき人もほとんど歩いていない。子供の頃に見知った道もあるが、当時は近所を散歩するような習慣もなくバスや車での行き来に限られていたためか、道幅が狭く奥まった場所に記憶と結びつくような風景は見つけられなかった。とりたてて何があるわけでもなく、盆地の裾野に掛かるゆるやかな傾斜地に小さな田んぼや畑がならんでいるだけなのだけれど、どこか凡庸とも言えないのは、古都という響きに堆積した時間の層を見るからかもしれない。宇佐見もこのあたりを歩いたはずだ。数十年の隔たりがあるとはいえ大きな都市開発とは無縁の町だから、今と変わらない風景を目にして死者の声を聴いたのだろうか。ファミリーマートはなかったはずだけれど。
この場所に来て感じる懐かしさは、まぎれもない自分の故郷である場所に幼い頃の記憶を見るからで、それは宇佐見の言う「郷愁」とは違う。けれど、ふいに掠める野焼きの煙たさ、湿った土草のかおり、風で揺れるススキの穂や柿の木の紅葉に見知らぬ懐かしさを覚えることはたしかにあるのだろう。それに、地形が関係しているのか、空気が落ちている、とでも表現したくなるような静けさと重さを孕んだ独特の湿度があって、それが内省を促す気持ちにさせる、なんてこともあるのかもしれない。
あたかも世界からはみだしたかのように、私はいま野の中の道を歩いているが、はみ出した私が世界に合体するとき、私が世界と同体であることを感じるとき、本当の歴史がそよぎ出す。
そんなことを考えながら野の中を歩いていると、茂みの中から聴こえてくる遠い死者たちの声におされて、夕暮れの雲に吸い込まれてゆきそうだった。
参考文献:
『一茎有情』宇佐見英治、志村ふくみ 用美社
『三つの言葉』宇佐見英治 みすず書房